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大阪高等裁判所 昭和49年(う)777号 判決

主文

原判決中被告人伊藤晃の建造物侵入及び建造物損壊に関する部分を破棄する。

被告人伊藤晃を懲役一月に処する。

ただし、同被告人に対し、この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

被告人早崎源二郎、同神谷信之助に関する各控訴及び被告人伊藤晃のその余の部分に関する控訴をいずれも棄却する。訴訟費用中、原審証人安井俊一(第二三回公判)、同大野晃生(第二四回公判)、同橋川渡(第二八回公判)、同近記伍市(第七四回公判)、同中尾英剛(第七四回公判)、同片野和(第九〇回公判)に支給した分及び原審証人猪子顕三(第一三回、第一四回公判)、同木村敬二(第二一回公判)、同大井俊郎(第二〇回公判)、当審証人猪子顕三に支給した分の各四分の一は被告人伊藤晃の負担とする。

理由

(中略)

第一、本件の経過

本件公訴事実の要旨は、

被告人早崎源二郎は京都府職員労働組合(以下府職労と略称する)書記長、同神谷信之助は府職労執行委員、同伊藤晃は府職労保険支部長であった者であるが、

第一、昭和三四年四月一五日府職労の開催した勤務時間中の安保条約改定反対時局講習会に参加した所属職員に対し上京社会保険出張所長奥山覚次が年次有給休暇届の提出を求めたところ、被告人伊藤晃は、市川久雄、湯浅俊彦、ほか府職労保険支部役員ら約一〇名と共謀のうえ、右休暇届提出要求に抗議し、右は府職労の労働慣行を破るものとして右奥山所長に対し、強いて謝罪を要求すべく同日午後二時ころ、京都市上京区千本通下椹木町東入る上る出町小山町九〇八の二七番地上京社会保険出張所所長室に赴き、折柄会議中の奥山所長及び藤沢庶務課長を右役員らとともに取り囲み、同所長に対し、交々「お前は所長として何も判らんぼやぼやしていたら追い出すぞ、組合として休暇届提出のことについて保険課長と交渉中であるのに勝手に調査することはけしからん、詫状を出せ、組合の威力が判らんか、組合をなめてんのか。」と怒号しながら、「私は今回京都府職員労働組合に対し誠に遺憾なことをしましたが、これについては深く反省しています。以後このようなことはしません。」との内容の詫状を所長に突きつけたうえ、「これに署名捺印せよ、お前は何で黙っているのや、書くのか書かないのかどうや。」「俺達の始末書は取るくせに一枚位書け。」等と怒号して脅迫し、あるいは椅子に座っている同所長を椅子もろともに突き動かす等の暴行を加え、同所長を畏怖せしめて、前記詫状に署名せしめ、更に同所長の右手首を掴み所長の右手拇指を朱肉に押しつけたうえ前記詫状の署名の下に押しつけて強いて拇印させる等の暴行を加えて詫状を作成せしめ、もって脅迫暴行を用いて義務なきことを行なわしめ、

第二、右事実に関し、報告書を作成して上司に提出した右藤沢課長が同年七月一四日付をもって須磨社会保険出張所長に配置換となり、同出張所の前所長猪子顕三が下京社会保険出張所長に転ずるや、府職労保険支部ではこの一連の人事異動を目して、組合に対する挑戦人事であるとなし、同月二〇日着任した右猪子顕三の受け入れ拒否斗争並びに厚生省の監査拒否斗争を展開したのであるが、その間、

(一)  被告人伊藤晃は、市川久雄、井内和男、湯浅俊彦、野田昌生、大槻高、ほか府職労保険支部役員らと共謀のうえ、同年七月二八日午後三時ころ、同市下京区間之町下珠数屋町上る東玉水町二九五番地下京社会保険出張所において、右役員らとともに、折柄執務中の同出張所所長猪子顕三を取り囲み、同所長に対し、さきに被告人らが手交した同所長受入拒否に関する勧告文につき、同所長より「今回の人事異動は組合に対する挑戦人事とは認められない」と回答せられるや、交々「あんたを所長として受け入れられない、すぐ出て行け、明日からピケを張ってあんたの出所を阻止する。赤旗を並べてピケを張ったらどうする。」「思いあがった野郎や、京都府職労の実力を知らんのか。」「仕事は組合が管理する。」等と怒号して脅迫し、あるいは同所長の両手を掴んで引っ張り、更に周囲から押し、突き、体当り等して、同所長を所外に押し出す等の暴行を加え、

(二)  被告人伊藤晃、同早崎源二郎、同神谷信之助は、共謀のうえ、同年八月三日午前九時過ぎころ、同市中京区土手町通夷川下る鉾田町二九一番地中京社会保険出張所所長室において、折柄厚生省三浦監察官外五名により実施されていた監査事務に立会中の同所所長家入豊に対し、「交渉をもて。」等と要求し、拒否せられるや、矢庭に体当りで同所長の左肩を押し、更に左右脇の下より持ち上げ、同所長の両腕の自由を束縛し乍ら、北出入口附近まで引き出したうえ、胸部を突き離して階段から転落せしめる等の暴行を加え、

(三)  被告人伊藤晃、同神谷信之助は、湯浅俊彦、野田昌生、山田二郎、大槻高、大江洸、ほか府職労保険支部役員らと共謀のうえ、同日午前一〇時三〇分ころ、前記下京社会保険出張所所長室において、執務中の猪子所長に対し、「この野郎出て行け。」等と怒号し、同所長の両手を掴んで引っ張り来客用の長椅子の上に引き倒し、更に背後から同所長の腰や背中を押し、あるいは引きずる等の暴行を加え、

(四)  被告人伊藤晃、同早崎源二郎は、市川久雄、井内和男、湯浅俊彦、野田昌生、大槻高、大江洸、ほか府職労保険支部役員らと共謀のうえ、同年八月五日午前九時ころ、前記下京社会保険出張所事務室において、右役員らとともに、猪子所長を取り囲み、折柄右監察官らにより実施されていた監査事務立会のため所長室へ入室しようとする同所長に対し、身体、肘で押し返す等の暴行を加え、

もって、それぞれ右両所長の公務の執行を妨害し、

第三、被告人伊藤晃は、井内和男、湯浅俊彦、野田昌生、山田二郎、塩見秀夫、ほか府職労保険支部役員らと共謀のうえ、同年八月五日午前一時ころ、故なく前記猪子顕三管理に係る前記下京社会保険出張所に侵入し、かねて用意していた猪子所長を誹謗する内容を記載したビラ約二〇〇枚の裏面の全面に亘り事務用糊を塗りつけて、所長室、事務室の壁等に一面に貼りめぐらし、もって建造物を汚損して損壊し

たものである、

というものであって、第一の事実は強要罪、第二の(一)ないし(四)の各事実は公務執行妨害罪、第三の事実は建造物侵入罪及び建造物損壊罪に該当するものとして起訴された。

原判決は、公訴事実第一、第二の(二)、(三)、第三についてはいずれも被告人らの所為の中には構成要件に該当する行為があるが可罰的違法性がないから罪とならないとし、公訴事実第二の(一)、(四)についてはいずれも犯罪の証明がない(なお第二の(四)については暴行罪の構成要件に該当する行為はあるが可罰的違法性がないから罪とならない)として、全事実につき無罪の言渡をした。

右原判決に対し、検察官から控訴の申立てがあり、その控訴の趣意は後述のとおり事実誤認、法令の解釈適用の誤りを主張するものである。

第二、各公訴事実に関する控訴趣意とこれに対する当裁判所の判断

(一及び二 略)

三 公訴事実第二の(二)について(被告人伊藤、同早崎、同神谷関係)

論旨は、要するに、原判決は、家入所長が公務の執行中であったことを認めたうえ、被告人伊藤が肩で同所長の身体を押し、被告人早崎、同神谷の両名が左右から同所長の背に手を添えて同所長を所長室から中庭に連れ出したと認定して、この被告人らの所為は公務執行妨害罪の構成要件に該当するが、違法性を阻却し社会的に相当な行為とまではいえないけれども、刑罰をもって臨まなければならない程の違法性、すなわち可罰的違法性がないから罪とならないとして無罪の言渡をしたが、原判決が可罰的違法性の理論を採用したのは公訴事実第一の論旨で述べたとおり法律の解釈適用を誤ったものであり、仮にその理論の採用が許されるとしても、本件の場合には、目的の正当性、手段方法の相当性、微罪性のいずれの点でもその要件を充足しないのに、原判決はその理論の適用にあたり、その判断の前提となるべき事実を誤認し、かつ法律の適用を誤っており、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。これに対する弁護人の答弁は、被告人伊藤は所長室に入っていないのに原判決が被告人伊藤が所長室に入っていたとし、かつ家入所長に対し有形力の行使をしたと認定した点、及び家入所長は説得を受けて自発的に中庭に出たのに原判決が被告人らの所為を公務執行妨害罪の構成要件にあたるとした点は誤りであるが、結論において犯罪の成立を否定したことは正当である、というのである。

よって検討するに、原判決が本件公訴事実第二の(二)につき可罰的違法性の理論を採用して被告人三名に対し無罪の言渡をしたことは所論のとおりである。ところで、犯罪構成要件に該当する外観を呈する行為であって刑法所定の違法性阻却事由の認められない場合であっても、当該行為に至った経緯、その行為の動機・目的、手段・方法、結果(発生した損害の程度など)、その他諸般の事情を考慮に入れて、それを法秩序全体の見地から終局的には構成要件該当性を欠くものとしてあるいは可罰的違法性がないものとして犯罪の成立が否定されることもあり得ると解する。原判決は構成要件該当性を認めたうえで可罰的違法性がないとして犯罪の成立を否定しているが、その見解を採用したこと自体をもって法律の解釈適用を誤ったものとは認め難い。

そこでまず、事実関係についてみると、原判決が理由第二の四の1「本件発生に至る経緯」及び2「本件事実」として認定したところはその挙示の証拠及び当審証人家入豊の証言(ただし認定に反する部分を除く)を綜合して肯認することができる。

所論は、右認定に関し、原判決は「三浦主任監察官が被告人らの要求を入れて被告人らの申し入れを聞いていたのに、家入所長が強く被告人らの発言を制止しようとする態度に出たため、被告人らとしては、府職労の言分を右監察官に聞いてもらう必要上、やむなく同所長を所長室から連れ出したものである」と認定して目的の正当性を認めているが、三浦主任監察官が組合員らの話を聞いた時期は、すでに家入所長が被告人らによって中庭に押し出された後であったから、「府職労の言分を監察官に聞いてもらう必要上、やむなく家入所長を所長室から連れ出した」と認定したことは誤りである、というのである。しかしながら、《証拠略》によれば、被告人神谷、同早崎をはじめ山口孝男、竹沢秀、大槻高ら組合役員約一〇名は家入所長が所長室に入るのに続いてほゞ一団となって所長室に入り、そのうち山口らは家入所長の前に行き同所長に対し引き続き「監察官に会いたいので取りついで欲しい」旨の申し入れをしたが、その所長室はそれほど大きくない関係上、同時に他の者即ち竹沢、大槻らは所長室内にいた三浦主任監察官の前に行き同監察官に対し府職労の話を聞いてもらいたい旨申し入れをし、やがて同監察官の了解を得て竹沢、大槻の順に府職労の実情を訴えたものであることが認められるので、この事実に徴すると原判決の認定は正当であって誤りはないと認められる。

なお、弁護人は、被告人伊藤は当日中京出張所に到着したのは午前九時二〇分すぎころであり、しかも所長室には入ってないので家入所長に対し原判決が認定しているような行為に及んだことはない、と主張し、原審及び当審において被告人伊藤はそのように供述するのであるが、家入所長は昭和三四年五月一日から中京出張所の所長であって府職労保険支部支部長である被告人伊藤とは何度か面談したことがあって面識があり、同被告人を見間違うことはないと思料されるので、被告人伊藤の右供述中被告人伊藤が家入所長に原判決が認定したような行為をしていないという部分は家入所長の証言に照らし措信しがたい。

以上の事実に基づいて考察すると、府職労が監察官に面会を求めたのは藤沢人事問題についての京都の実情を監察官に訴えて聞いてもらいそれを本省に伝えてもらうためであったが、もとより監察官は藤沢人事についての人事担当官ではないけれども本省の者に直接訴えてそれを本省に伝えてもらうことにはそれなりの意義がないわけではなく、府職労が監察官に面会を求めたこと自体は非難されるべきものではない。たゞ京都での監察は六日間の予定であったのであるからなにも監察の初日にしかもその冒頭にしなければならない理由はないのではないかという検察官の所論も尤もと思われるが、しかし一方、藤沢人事問題が生じた経緯及びその後の当局(保険課長)の対処の仕方などをみると、前記のとおり藤沢庶務課長を須磨出張所長へ昇格させた人事につき府職労がこれをもって組合との約束に反する挑戦人事と受けとめたことは無理からぬものがあり、その結果府職労がその人事異動に対する抗議行動に出たことも自然の成り行きといえるし、また府職労が本省の人事担当官を京都に呼んで藤沢課長の転任人事の理由を説明して欲しいと保険課長に要請したのに対し、保険課長は、真実はその要請どおり働きかける気持ちがなく、単に組合対策として組合に対する格好をつけるためであったのに、その真意を秘し、組合の要請を受け入れた形にして木村課長補佐と猪子所長を上京させたが、府職労が望むとおり本省の人事担当官が京都に来ることにはならなかった。このような状況のときに本省から監察官が業務監察のため京都に来ることになったので、府職労としては、この機会に本省の者に直接実情を訴えたいというのは前記のとおり、これまた自然の成り行きであり、あながち非難できないものがある。しかして、三浦主任監察官は竹沢秀(府職労副委員長)、大槻高(同書記次長)ら組合役員の要請を受け入れて同人らから話を聞きはじめたのに、家入所長がなおも組合役員らの発言を制止しようとした(同所長がそうしたこと自体はもとより非難できない)ため、被告人伊藤、同早崎、同神谷の三名は、監察官に府職労の訴えを聞いてもらう必要上、やむなく被告人伊藤が肩で家入所長の身体を押し、被告人早崎が右、被告人神谷が左から同所長の背に手を添えて同所長を所長室から中庭に連れ出したものであるから、その連れ出した目的自体は不当とはいえない。そして連れ出した距離は所長室の北出入口から出たところが中庭であるのでわずか数歩程度のものであり、連れ出した態様は殴る蹴るなどの暴力は一切伴わずたゞ出たがらない所長を連れ出すのに必要な最少限の肩で押し背に手を添える程度の行為にすぎないから、これは有形力の行使ではあるけれどもその程度は比較的軽微である。また家入所長が連れ出されて中庭にいた時間は約二〇分でその間三浦主任監察官は組合役員から訴えを聞いていたのであるが、これによる監察への直接の影響は大きくなかった。以上のとおり本件に至った経緯、行為に及んだ目的、行為の態様、与えた影響、その他を綜合判断すると、法秩序全体の見地から照らして考えても、被告人らの行為はいまだ刑罰を科すべきほどの実質的違法性はないものというべきである。

そうすると、公訴事実第二の(二)につき可罰的違法性がないとして犯罪の成立を否定した原判決は結論において正当であり、論旨は理由がない。

(四及び五 略)

六 公訴事実第三について(被告人伊藤関係)

論旨は、要するに、原判決は、被告人らの所為が建造物損壊罪及び建造物侵入罪の各構成要件に該当することを認めながら、刑罰をもって臨まなければならないほどの違法性、すなわち可罰的違法性がないとして無罪の言渡をしたが、原判決が可罰的違法性の理論を採用したのは公訴事実第一の論旨で述べたとおり法律の解釈適用を誤ったものであり、仮にその理論の採用が許されるとしても、本件の場合には目的の正当性、手段方法の相当性、微罪性いずれの点でもその要件を充足しないのに、原判決はその理論の採用にあたり、その判断の前提となるべき事実を誤認し、かつ法律の適用を誤っており、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。これに対する弁護人の答弁は、原判決が被告人らの所為につき各構成要件該当性を認めた点は誤りであるが、結論において犯罪の成立を否定したことは正当である、というのである。

そこで記録を精査して検討すると、原判決が理由第二の七の1「本件発生に至る経緯」及び2「本件事実」で認定しているところはその挙示の各証拠によって肯認することができる(ただし、原判決五五頁の五行目に「同井内」とあるのを削除する)。右証拠に基づき本件ビラ貼りの状況等について若干ふえんすると次のとおりである。すなわち、(1)本件ビラが貼られた場所は下京社会保険出張所の事務室及び所長室であって、これらの各部屋殊に事務室は国民健康保険、厚生年金、その他各種社会保険の事務手続のため多くの府民が出入りするところであり、所長室は来客の応接などにも使われるところであるところ、本件ビラはこれらの各部屋の壁及び事務室の柱、ガラス窓、カウンター、ロッカー、書棚、螢光燈、扇風機などところかまわず貼られた。もっとも、右のうち建造物の一部と認められるのは壁及び柱だけであり、他はカウンター、ガラス窓の如く一部をこわさなくても取りはずしが可能なものか否かがはっきりしないため建造物の構成部分と認め難いもの、またはロッカー以下扇風機までの如く明らかに建造物の構成部分でないものであるから、本件ビラ貼りの所為による建造物損壊罪の対象となるのは壁と柱に貼られたビラによるものに限られる。(2)本件ビラはざら半紙大(縦約三六センチメートル、横約二六センチメートル)の白紙に謄写したもので、貼った枚数は全部で約一五〇枚(この枚数は押収してあるビラ一七二枚から貼った形跡のない一三枚―当裁判所四九年押第二九五号の八―を除いた枚数が一五九枚であることからも明らかである)であるが、そのうち壁と柱に貼られたものは全体の約三分の二にあたる約一〇〇枚と認められる。(3)貼られたビラの内容は、原判決認定のとおりで、「われわれは団結で職場を守ろう、府職労」「伝統を誇る民主職場を守れ、府職労」「退去命令、職務命令、これで人が働くと思うのか、府職労」というものもあるが、大部分は、「寄るなサワルナ、猪の子には牙にかけられるぞ、府職労」「私の牙に御注意(猪子顕三)、府職労」「居たらジャマ早く出ろ出ろ猪子出ろ、府職労」「猪ノ子さん職場はあんたが大嫌い、府職労」などというものであって、職務命令及び退去命令に対する抗議という色彩よりは猪子所長を誹謗ないしは揶揄する色彩の強いものであった。(4)これらのビラの貼り方はビラの裏面の四隅に事務用の糊をつけて貼ったものも一部あったが、大半はビラの裏面全体に水で溶して薄くした事務用の糊を刷毛で塗って貼ったものであった。(5)猪子所長及び保険課長(代理木村課長補佐)は府職労保険支部に対しこれらのビラの除去を求めたが同支部はその除去をしなかったので、これらのビラのうち所長室に貼られた約三〇枚は八月末ころ猪子所長自身が剥ぎ取ったが、他は全部九月中ころの休みの日に掃除の専門業者によって取り除いた。同業者は雑巾を水でぬらしてこれでビラを湿らせてしばらくおいてから剥ぎとり、それでとれないものは爪でこすって剥ぎ取った(そのため作業に従事した者は翌日になっても爪が痛かったという)。その作業は窓ふきも兼ねて三人でまる一日かかった。しかし、そのようにして剥ぎ取ったものの、剥がした後は糊にほこりが附着したりしてビラの大きさの黒くて汚い痕跡が残った。以上のとおりである。

ところで、建造物損壊罪の損壊とは、物理的に建造物の全部もしくは一部を害し、またはその他の方法によってその効用を滅却もしくは減損することをいうが、その効用の中には建造物の美観ないしは外観も含まれる。本件についてこれをみると、ビラの貼られた下京社会保険出張所の庁舎は昭和二七年ころ建築された木造平屋建の建物であって本件ビラ貼付時まで約七年しか経ていないわりには古びた感じのする建物であったが、このような建物であってもそれなりに具備すべき美観ないし外観があるのに、被告人伊藤らは多数の府民が出入りする庁舎の内部の壁、柱に前記のとおり主として猪子所長を誹謗ないし揶揄する内容のビラ約一〇〇枚を裏面全体に糊を塗るなどしてところかまわず貼りつけたものであって、これを剥がすのに掃除専門業者が三人でまる一日かかったほどで、しかも剥がした後はビラの大きさの黒ずんで汚い痕跡が残ったものであるから、被告人伊藤らの右ビラ貼りつけの所為は建造物の効用を減損するものと認められる。したがって、原判決が建造物損壊罪の構成要件に該当するとしたのはその限度では正当である。

しかしながら、原判決は、「本件ビラ貼りは、猪子所長が組合員らに職務命令、退去命令を発したことに対する抗議行動としてなされたものであるから、その目的において違法とまではいえず、被害の程度が比較的軽微であること等の事情に鑑みると、未だ建造物損壊罪の罰条をもって臨まなければならないほどの違法性があるものとは認められない」として結局無罪の言渡をしたのであるが、検察官の所論にかんがみ検討するに、被告人伊藤らが本件ビラ貼りを敢行したのは、原判決認定のとおり府職労保険支部拡大執行委員会の決議に基づき、猪子所長が発した職務命令、退去命令に対する抗議行動の一環としてなしたものであるから、かかる目的自体はもとより違法であるとも不当であるともいえないが、前記のとおりの本件ビラの内容、枚数、貼付方法、貼付された場所、剥ぎ取りに要した労力、残った痕跡などをみると、本件ビラ貼りの所為は右目的達成のための手段方法としては社会的相当性の限度を超えた不当のものといわざるをえない。したがって、本件ビラ貼り行為は、正当な組合活動といえないのは勿論、可罰的違法性がないものともいうことはできない。そうすると、原判決が被告人伊藤らの本件ビラ貼りの所為は可罰的違法性がないとしたのは違法性阻却事由に関する法令の適用の誤りといわざるをえず、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

本件ビラ貼り行為が右のとおり建造物損壊罪を充足するものである以上、このような違法行為を目的とした本件建造物への立入りは違法たるを免れず、違法性は阻却されない。なお、弁護人は、被告人伊藤は当時下京出張所の職員であったから出張所への立入りは包括的に承諾されていて自由であるし、また本件立入りについては宿直員中尾英剛が承諾をしていたのであるから、建造物侵入罪は成立しない、旨主張するが、なるほど被雇用者は一般的にはその勤務する事業所へ立入ることが包括的に承諾されているとみられうるが、いやしくも違法目的で立入るが如き場合にも承諾があるとみることはできないから、本件のように深夜午前一時半ころ違法なビラ貼りの目的で立入った行為については到底管理者の承諾があったとみることはできないし、また本件の場合宿直員中尾英剛が被告人伊藤らの立入りを承諾していたことは所論のとおりであるが、一般的にいって宿直員には違法目的で立入る者を承諾する権限までは与えられているとはみられないので、本件の場合宿直員が承諾をしているけれども本件建造物の管理者である出張所長の承諾を得ていたということはできない。したがって、原判決が建造物侵入の所論も可罰的違法性がないとして犯罪の成立を否定したのは建造物損壊の場合と同様判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがあるものというべきである。

してみると、公訴事実第三については、論旨は理由があるから、原判決はその限度で破棄を免れない。

七 結論

以上の次第で、原判決中被告人伊藤の建造物侵入罪及び建造物損壊罪に関する部分(公訴事実第三)は刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条により破棄して同法四〇〇条但書により後記のとおり自判することとし、被告人早崎、同神谷に関する各控訴及び被告人伊藤のその余の部分に関する控訴はいずれも刑事訴訟法三九六条により棄却することとする。

(罪となるべき事実)

被告人伊藤晃は府職労保険支部支部長であったものであるが、湯浅俊彦、野田昌生、山田二郎、塩見秀夫、ほか同支部役員らと共謀のうえ、昭和三四年八月五日午前一時ころ、違法なビラ貼りの目的で故なく下京社会保険出張所所長猪子顕三管理に係る京都市下京区間之町下珠数屋町上る東玉水町二九五番地所在の右下京社会保険出張所に侵入し、同出張所において、用意して持って行った「退去命令、職務命令、これで人が働くと思うのか、府職労」「居たらジャマ、早く出ろ出ろ猪子出ろ、府職労」「寄るなサワルナ、猪の子には牙をかけられるぞ、府職労」などと記載したざら半紙大のビラ約一〇〇枚を同出張所の事務室内の壁及び柱、所長室内の壁にそれぞれビラの裏面の全体に刷毛で糊をつけるなどして貼りつけ、もって建造物を汚損して損壊したものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人伊藤の判示所為中建造物侵入の点は刑法六〇条、一三〇条前段、行為時においては昭和四七年法律六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては改正後の罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があったときにあたるから刑法六条、一〇条により軽い行為時法によることとし、判示所為中建造物損壊の点は刑法六〇条、二六〇条に該当するところ、右建造物侵入と建造物損壊との間に手段結果の関係があるので刑法五四条一項後段、一〇条により一罪として重い建造物損壊罪の刑で処断することとし、その刑期の範囲内で被告人伊藤を懲役一月に処し、情状により刑法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予することとし、原審及び当審における訴訟費用につき刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

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